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千葉県栄町の水塚2016年11月03日

 龍角寺古墳群付近からの帰途立ち寄ったJA直売所から塚のようなものを発見した。付近は利根川に近い低地の水田地帯で古墳の可能性は低いと思われた。
直売所駐車場から発見

 接近してみるとちゃんと中身がある。
北西より接近

 南側から見ると上に構造物は見られない。
南側正面から
 後に発見した付近の水塚の分布図。17か16と思われる。

群馬県藤岡市宿神田地区遺跡群現地説明会 ― その4 K-11号古墳2013年07月25日

北東寄りから。径約11mの円墳。目玉は「一部、裏込め被覆が露出」=石室の安定・防護のために周囲に積んだ石または土まで墳丘の一部が破壊されている、こと。いわば実物大カットモデルである。
K-11号古墳東側

石室はやはり凝灰岩切石と自然石の併用。石室前はまだ掘りすすめられていないようだ。
K-11号古墳正面

あまり上部は残っていないが持ち送りはわかる。奥壁の欠損は墳丘の破壊と関係あるのだろうか。
K-11号古墳石室

南西部の葺石と埴輪列の状態。
K-11号古墳西側埴輪列

墳丘に密着しすぎな感じの埴輪列。こちら側は円筒中心らしい。南東側と北東側には人物や馬、器財などがある。
K-11号古墳西側埴輪列拡大

裏込めが見えている北側の損壊部。今にして思えばこうして細っていたため昔は隣の12・13号とつながって土塁状に見えていたのかと納得。
K-11号古墳北東側

北東側、崩落したような状態の埴輪。中央に筒状に見えるのは靫形埴輪らしい。
K-10号古墳北東部埴輪

参考図とは少し違うが緒らしき造形があることで靫らしきことがうかがえる。
K-11号古墳北東部靫形埴輪

東側埴輪列の一部。細めの円筒が重なるようにして倒れていることから馬形埴輪ではないかと思われる。
K-11号古墳東側埴輪列

群馬県藤岡市宿神田地区遺跡群現地説明会 ― その3 K-10号古墳2013年07月12日

東側の状況。今回公開の範囲では最西端になる。径約10mとされる。一部に葺石が見える。これらのようなほぼ積石塚では葺石と言うより積石の表面とでも言ったほうが良いような気もする。
K-10号古墳東側

羨門脇裾の葺石と埴輪列。一部にすぎないためか直線的に見える。
K-10号古墳南側石積状況

正面。羨門前にまで埴輪列がまわって塞いでいるように見える。追葬を前提にしていないのだろうか。
K-10号古墳正面

玄室は主に凝灰岩切石で羨道付近には自然石が多めのこの群の定番パターン。刀が一振りしか残っていなかったらしい。
K-10号古墳石室

西側埴輪列の一部。先が開いているので朝顔形埴輪か。
K-10号古墳西側埴輪列

北西部のトレンチ。白い土嚢側が古墳。石敷の帯のようなものが見える。今回各古墳の外周施設についてはあまり明らかにされていない(説明資料のイメージ図には周溝が描かれている)が、周堤の一部のようなものか。
K-10号古墳北西トレンチ

北西部の葺石は比較的良く残っている。
K-10号古墳北西石積状況

北東側のかなり北寄りにも埴輪列が残っていた。説明会資料にはK-10とK-11は「石室正面を中心に半周だけ」とあるがどういうことだろうか。まさか鬼門除けでもあるまいに。あるいは本来全周にあったのか。
K-10号古墳北東側

埼玉県桶川市楽中遺跡見学会2012年09月01日

 混雑する国道17号線バイパスをさらにバイパスするための「上尾道路」建設にともない調査中の桶川市楽中遺跡の現地見学会が催された。同遺跡は有名な熊野神社古墳の北東近くに在る。未だ調査途中であるが縄文時代と古墳時代の住居跡が複数検出され、古墳の石室の残存部がほぼ明らかになるなどの成果が示された。

第7号住居跡 非常に小型である。
第7号住居跡

第10号住居跡と第9号住居跡 こちら側の浅い部分の10号の後の時代に向こうの深い部分の9号がつくられた。中央左寄りには逆さに埋められた第1号埋甕が見える。
第9号、第10号住居跡

第6号住居跡 柱穴が無い住居跡。
第6号住居跡

第1号溝跡 近世の屋敷の境界溝ではないかとされる。
第1号溝跡

第3号住居跡 柱穴の位置が台形で炉跡が2箇所にある。
第3号住居跡

第2号住居跡 柱穴が浅い。左寄りに炉、右端に貯蔵穴がある
第2号住居跡

樋詰6号墳 正式には川田谷古墳群樋詰支群6号墳。7世紀の16mの円墳。削り残された下部のみが残存。
樋詰6号墳正面

石室前部 砂岩の切石積みの複室構造。全体に小振りで狭そう。
樋詰6号墳石室前門付近から

奥壁から 現状では遺物無しだが、玄室底部の土の中に期待。
樋詰6号墳石室奥壁から

玄室付近 胴張りなど無く直線的な形状。
樋詰6号墳石室玄室付近

石材参考資料 比較のため、各種石材を展示していた。
石室石材種類参考資料展示

住居跡出土品 左端は第5号住居跡のカマド中から出た土玉。
住居跡出土遺物展示

茨城県猿島郡境町、鷲塚古墳近況2012年04月15日

「道の駅さかい」近くのショッピングモール駐車場内の半地下に保存されている鷲塚古墳。最近、ショッピングモールの中心のスーパーが営業を停止している状態になり、周囲の荒廃が懸念される。

周囲を埋め立てられた状態で保存されている鷲塚古墳。穴の中にはゴミが散乱している。
最近の鷲塚古墳

説明版にあるように隣接のおたま塚古墳も駐車場内に鉄板で蓋をされた状態で保存されている。
鷲塚古墳説明板

現在、鷲塚古墳の祠は震災の為か、台座からずれた状態。
最近の鷲塚古墳の祠

震災前の状態。
震災前の鷲塚古墳の祠

2002年頃、開発前の鷲塚古墳。
2002年頃の鷲塚古墳

千葉県横芝光町、寺方古墳群2012年03月18日

 千葉県の旧横芝町の坂田にある坂田城跡は中世城郭遺構が良く保存されている。また一帯は国内屈指の規模の梅林として知られ、「梅まつり」など各種イベントも盛んに催されている。
 この時は古墳目的で訪れたのではなかったのだが、日頃の習性のせいか、古墳らしきものを幾つか発見することとなった。

丘陵を利用した城郭の平坦な郭内が梅林として利用されている。
坂田城跡梅林

敷地は広大でのんびり一周すると優に1時間はかかる。
坂田城跡

小型の前方後円墳らしきもの。丘陵の北部、城郭の域外の梅林にある。寺方古墳群(20数基、殆ど消滅)の一部と思われる。
寺方古墳群前方後円墳?

付近の地表には土器片が散見された。
土師器質土器片

さらに付近の道の脇に怪しい盛り上がりを発見。
寺方古墳群円墳藪外

林の中に入るとこのような円墳らしきものが見られた。
寺方古墳群円墳

茨城県小美玉市(旧小川町)、大塚古墳他2012年03月11日

古墳探訪業界では高難度古墳が多いことでも有名(?)な旧小川町。その中のいくつかをご紹介。

大塚古墳 市街地に近い中延にあるが進入路が見つからないので当たりを付けた藪の脇の急斜面を強襲して発見。到達してみれば意外なことに墳頂に立派な標柱のある大円墳だった。径43mとのこと。下は全体なのだが藪で…、まあ何となくお察しください。
大塚古墳墳頂

大塚古墳全体


幡谷古墳 左が権現塚古墳のある丘で、右の丘のちょうど対称的な位置にある。大型古墳があってもおかしくない立地であるが径8m高2mの小円墳である。
幡谷古墳権現塚古墳遠景
幡谷古墳付近はかつてのニュータウン予定地風の地域で、一部に廃屋も見られた。古墳めぐりをしていると霞ヶ浦周辺には同様のパブルの夢の跡が多いことがわかる。
幡谷古墳付近
幡谷古墳本体。実はすぐ近くまでニュータウンの舗装路が来ているのだがそこからは藪に阻まれて見えない。少し先から藪の中を戻ってからようやく発見した。
幡谷古墳

芹沢境古墳 行方市旧玉造町との境界近くの倉数地内、すぐ西に梶無川が流れる丘にある。埋蔵文化財分布調査報告書によると「全長約15m高さ約1m」で形状不詳とされる。周囲はシイタケ栽培場になっている。
芹沢境古墳全体
芹沢境古墳墳頂。「棺室に使用されたと思われる粘板岩の平らな石が露出している」とはこれらの石のことらしい。
芹沢境古墳墳頂

埼玉県行田市、鉄砲山古墳現地説明会2012年02月19日

 保存整備事業が進むさきたま古墳群の鉄砲山古墳群の発掘調査現地説明会が催行された。大きさは群中3番目であるがフツーの地味な古墳かと思いきや、掘って見たらやっぱり他に例のない特徴が見出された。

 埴輪列の一部が発見された東側くびれ部のトレンチ。中央にミラーがあってそこに映っているのを見るようになっていたのだがあまり見えない。
鉄砲山古墳円筒埴輪検出トレンチ

 後円部北端付近のトレンチ。杭は昭和初期の文部省のもの。その上付近が今回この古墳のみに発見された墳裾に貼られた硬い粘土の部分。目的は不明とのこと。私見であるが、これは築造予定地を示すためにあらかじめ裾部だけ作っておいたものではないだろうか。とすれば奥の山古墳と接する部分が遠慮し合っているように見えることの説明になるかもしれない。
鉄砲山古墳後円部北端トレンチ

 公園内の遊歩道にあったあまり役に立ってなさそうだった照明器具がトイレの脇のほうの目立たない所に片付けられていた。
さきたま古墳公園とある片隅の照明器具群

 公園内の案内板がいつの間にか新しいものに替えられていた。確か古いものは長年にわたって愛宕山古墳の向きが逆になっていたはずだが有耶無耶にされてしまったようだ。
さきたま古墳公園新案内図

 これが証拠の旧案内板の図。誰にも指摘されなかったのだろうか。
さきたま古墳公園旧案内図

 現説後、資料館の企画展とリニューアルされた常設展示を見た後は近くの某食堂でフライやきそばで昼食。このお店にはかつてクロちゃんという看板犬がいたのだが数年前にお星さまに…。いわゆるハインドカラーのハスキーの血が入ったらしき子だがなぜか「クロ」ちゃんだった。
ありし日のクロちゃん

茨城県美浦村、木原清月古墳群1号墳2012年01月21日

 赤い鳥居のある2号墳よりも藪の奥にあるはずが見つからず、地形図に描かれた送電線との位置関係から推定して藪に突入の末にようやく発見。サイズなども2号墳と同程度。墳丘上を道が横切っていた。後から見ると送電線の鉄塔のメンテナンスの為の道が続いていて、そちらから入れば楽だったことがわかってヤレヤレ。
 近くに送電線がある時はまずそれから位置を測るのは古墳探索の基本であったはずが忘れていたのを反省。 
木原清月1号墳

 2号墳に至る道の鉄塔。この度の震災でも案外鉄塔というのは倒れなかった。日頃あまり気にしていないが重要なインフラであることが身に染みた1年だった。
テキサス江戸崎線2号鉄塔