千葉県栄町の水塚 ― 2016年11月03日
群馬県藤岡市宿神田地区遺跡群現地説明会 ― その4 K-11号古墳 ― 2013年07月25日
石室はやはり凝灰岩切石と自然石の併用。石室前はまだ掘りすすめられていないようだ。
あまり上部は残っていないが持ち送りはわかる。奥壁の欠損は墳丘の破壊と関係あるのだろうか。
南西部の葺石と埴輪列の状態。
墳丘に密着しすぎな感じの埴輪列。こちら側は円筒中心らしい。南東側と北東側には人物や馬、器財などがある。
裏込めが見えている北側の損壊部。今にして思えばこうして細っていたため昔は隣の12・13号とつながって土塁状に見えていたのかと納得。
北東側、崩落したような状態の埴輪。中央に筒状に見えるのは靫形埴輪らしい。
参考図とは少し違うが緒らしき造形があることで靫らしきことがうかがえる。
群馬県藤岡市宿神田地区遺跡群現地説明会 ― その3 K-10号古墳 ― 2013年07月12日
東側の状況。今回公開の範囲では最西端になる。径約10mとされる。一部に葺石が見える。これらのようなほぼ積石塚では葺石と言うより積石の表面とでも言ったほうが良いような気もする。
羨門脇裾の葺石と埴輪列。一部にすぎないためか直線的に見える。
正面。羨門前にまで埴輪列がまわって塞いでいるように見える。追葬を前提にしていないのだろうか。
玄室は主に凝灰岩切石で羨道付近には自然石が多めのこの群の定番パターン。刀が一振りしか残っていなかったらしい。
西側埴輪列の一部。先が開いているので朝顔形埴輪か。
北西部のトレンチ。白い土嚢側が古墳。石敷の帯のようなものが見える。今回各古墳の外周施設についてはあまり明らかにされていない(説明資料のイメージ図には周溝が描かれている)が、周堤の一部のようなものか。
北東側のかなり北寄りにも埴輪列が残っていた。説明会資料にはK-10とK-11は「石室正面を中心に半周だけ」とあるがどういうことだろうか。まさか鬼門除けでもあるまいに。あるいは本来全周にあったのか。
埼玉県桶川市楽中遺跡見学会 ― 2012年09月01日
混雑する国道17号線バイパスをさらにバイパスするための「上尾道路」建設にともない調査中の桶川市楽中遺跡の現地見学会が催された。同遺跡は有名な熊野神社古墳の北東近くに在る。未だ調査途中であるが縄文時代と古墳時代の住居跡が複数検出され、古墳の石室の残存部がほぼ明らかになるなどの成果が示された。
第7号住居跡 非常に小型である。
第10号住居跡と第9号住居跡 こちら側の浅い部分の10号の後の時代に向こうの深い部分の9号がつくられた。中央左寄りには逆さに埋められた第1号埋甕が見える。
第6号住居跡 柱穴が無い住居跡。
第1号溝跡 近世の屋敷の境界溝ではないかとされる。
第3号住居跡 柱穴の位置が台形で炉跡が2箇所にある。
第2号住居跡 柱穴が浅い。左寄りに炉、右端に貯蔵穴がある
樋詰6号墳 正式には川田谷古墳群樋詰支群6号墳。7世紀の16mの円墳。削り残された下部のみが残存。
石室前部 砂岩の切石積みの複室構造。全体に小振りで狭そう。
奥壁から 現状では遺物無しだが、玄室底部の土の中に期待。
玄室付近 胴張りなど無く直線的な形状。
石材参考資料 比較のため、各種石材を展示していた。
住居跡出土品 左端は第5号住居跡のカマド中から出た土玉。
千葉県横芝光町、寺方古墳群 ― 2012年03月18日
千葉県の旧横芝町の坂田にある坂田城跡は中世城郭遺構が良く保存されている。また一帯は国内屈指の規模の梅林として知られ、「梅まつり」など各種イベントも盛んに催されている。
この時は古墳目的で訪れたのではなかったのだが、日頃の習性のせいか、古墳らしきものを幾つか発見することとなった。
丘陵を利用した城郭の平坦な郭内が梅林として利用されている。
この時は古墳目的で訪れたのではなかったのだが、日頃の習性のせいか、古墳らしきものを幾つか発見することとなった。
丘陵を利用した城郭の平坦な郭内が梅林として利用されている。
敷地は広大でのんびり一周すると優に1時間はかかる。
小型の前方後円墳らしきもの。丘陵の北部、城郭の域外の梅林にある。寺方古墳群(20数基、殆ど消滅)の一部と思われる。
付近の地表には土器片が散見された。
さらに付近の道の脇に怪しい盛り上がりを発見。
林の中に入るとこのような円墳らしきものが見られた。
埼玉県行田市、鉄砲山古墳現地説明会 ― 2012年02月19日
保存整備事業が進むさきたま古墳群の鉄砲山古墳群の発掘調査現地説明会が催行された。大きさは群中3番目であるがフツーの地味な古墳かと思いきや、掘って見たらやっぱり他に例のない特徴が見出された。
埴輪列の一部が発見された東側くびれ部のトレンチ。中央にミラーがあってそこに映っているのを見るようになっていたのだがあまり見えない。
埴輪列の一部が発見された東側くびれ部のトレンチ。中央にミラーがあってそこに映っているのを見るようになっていたのだがあまり見えない。
後円部北端付近のトレンチ。杭は昭和初期の文部省のもの。その上付近が今回この古墳のみに発見された墳裾に貼られた硬い粘土の部分。目的は不明とのこと。私見であるが、これは築造予定地を示すためにあらかじめ裾部だけ作っておいたものではないだろうか。とすれば奥の山古墳と接する部分が遠慮し合っているように見えることの説明になるかもしれない。
公園内の遊歩道にあったあまり役に立ってなさそうだった照明器具がトイレの脇のほうの目立たない所に片付けられていた。
公園内の案内板がいつの間にか新しいものに替えられていた。確か古いものは長年にわたって愛宕山古墳の向きが逆になっていたはずだが有耶無耶にされてしまったようだ。
これが証拠の旧案内板の図。誰にも指摘されなかったのだろうか。
現説後、資料館の企画展とリニューアルされた常設展示を見た後は近くの某食堂でフライやきそばで昼食。このお店にはかつてクロちゃんという看板犬がいたのだが数年前にお星さまに…。いわゆるハインドカラーのハスキーの血が入ったらしき子だがなぜか「クロ」ちゃんだった。
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